January 14, 2007
『カミュなんて知らない』学生宣伝部!奮闘中!!
現在、『カミュなんて知らない』学生宣伝部では学生ブログランキングの上位入賞を目指しております。ご覧の皆様、是非こちらをクリック頂きたいと思います。1日1回ワンクリック、応援宜しくお願いします!!
また、ご覧になった方はコチラよりユーザーレビューに投稿お願いします。一人でも多くの方に『カミュなんて知らない』を知って頂き、劇場に足を運ばれることを願っております。ブログへのコメントもお待ちしております。
学生宣伝部一同
May 19, 2006
お待たせしました!!!
東京での6時間ワークショップ大好評につき・・・
京都での6時間ワークショップが決定しました!
京都シネマ(6/3(土)初日)での公開を記念してのワークショップです。
以下、詳細を記しますので、関西方面の方、ぜひご参加ください!!
『カミュなんて知らない』公開記念
ー映画監督柳町光男6時間映画演出について語るー
日時:6月10日(土)13:00〜20:00
会場:京都精華大学「shin-bi」(http://www.shin-bi.jp)
〒600-8411
京都市下京区烏丸通四条下ル水銀屋町620
COCON烏丸3F
(地下鉄烏丸線四条駅・阪急京都線烏丸駅すぐ)
講師:柳町光男(映画監督)
定員:70名(定員に達し次第締め切ります。)
参加費:一般/2500円、学生/1500円
※かならず事前に『カミュなんて知らない』(6/3(土)京都シネマにて公開)をご観覧下さい。
※本講座の「受講書」をお持ちの方は京都シネマにて『カミュなんて知らない』1000円でご覧頂けます。
◆常に世界を震撼させてきた柳町監督自らが映画演出の神髄を6時間にわたり語り尽くし切るッ!!
第1部は早稲田大学での映像ワークショップを再現。溝口健二の傑作『近松物語』から主要なシーンをショット分析。カット割り、人物の配置、カメラワーク、音響設計….と溝口の眼差しを仔細に凝視することから映画演出の本質をあぶりだす。
第2部は新作『カミュなんて知らない』衝撃のラスト15分を、撮影時の台本と見取り図をもとに徹底解剖、誰もが映画の迷宮に迷い込むラストシーンの秘密を解き明かす。
第3部では1、2部を終え参加者全員による質疑応答と「映画」全般についての座談会。本気で映画作りを目指す人から「映画」を知らない人まで、映画史を疾走してきた鬼才が語る濃厚な6時間をぜひ体感して欲しい。
( ※13時〜20時までと長時間の講義になります。軽食やお飲み物を各自でご用意ください。会場は飲食の持ち込みが可能です。)
●申込み・問い合わせは、下記連絡先までご連絡下さい。
メール:info@shin-bi.jp
TEL/FAX:075-352-0844
店頭での申込みも可能です。
March 11, 2006
東京・渋谷ユーロスペースでの公開終了・・・。
ありがとうございます。
とうとうユーロスペースでのロードショーも終わってしまいました。
『カミュなんて知らない』はこれから各地を巡ります。
ここからは、「席巻」編です!!
奮闘でまたまた日本と関係していきます。
February 21, 2006
東京・渋谷ユーロスペースでの公開は、いよいよ3月10日(金)までとな・・・・
いよいよ3月10日(金)までとなりました!!
ユーロスペースでの『カミュなんて知らない』上映は3月10日(金)までとなっております。
まだご覧になっていない方、あと3回は観たい方、気にしてください!!
日程は次の通りです。
3/3(金)までは通常通り1日4回上映
上映時間 11:45 14:10 16:35 19:00
3/4(土)〜3/10(金)は1日2回上映
上映時間 11:45 14:10
↑詳細はクリック!!
電話:03−3461−0211
www.eurospace.co.jp/theater.html
是非劇場でご覧下さい!!
ワンクリックお願いします。
February 19, 2006
特集準備中!!
February 06, 2006
ヤフオクにて出品中!!
February 05, 2006
「映画監督 柳町光男 -6時間- 映画演出について語る。」
6時間のレポートをさせて頂きます。
早稲田大学で三年間、監督が受け持った映像ワークショップの再現。
まずは第1部、溝口健二監督『近松物語』(1954/大映)を徹底分析、その映画演出の核心に迫る。です。
『近松物語』を、そのロケーションの大半以上が廊下であることから、監督は『廊下の映画』であると喝破しました。廊下は映画的な場所である、という監督の確信は場所に対するこだわりに由来するものです。
監督の映画作りの根本は、その徹底したロケーションハンティングにありますこと、これはシナリオ・センターでの講義でも触れられておりました。
『カミュなんて知らない』においても、最初早稲田大学での撮影を進められていたのが、立教大学で撮影をすることになった際、場所を置き換えるのではなく、シナリオから練り直したというコトからも、うかがい知ることが出来ます。
タイトル以降初めて音楽が使用される、お玉が茂兵衛の細工場を訪れるシーン15より分析が始まりました。
ワンカットワンカットを止め、巻き戻しては再生する。画面を仔細に検討し、配布された資料(『近松物語の台本)に書き込むという作業です。
シーン15では流れるカメラワークに隠された、構図の妙。茂兵衛の登場における音などが検討されました。
(画面右奥に茂兵衛の姿が確認できます)
さらに検討はシーン16、茂兵衛とお玉の会話シーンに続きます。
カットを割ることをせず二人を撮らえた構図では、仕事をしながら会話を続ける二人が視線を避ける、もしくは交わさないことに主眼が置かれました。
しかし、演技指導をしないという逸話を持つ溝口健二監督において、いかなる指導が行われたのか?と話は演出の謎へと進みました。
監督は、身体、映像、音、こそ映画を成立させる要素であるとし、身体の話では、役者本人と登場人物の往復運動ではなく、<役者本人’>になることが肝要であるとした、第二部で対談することになる、藤井仁子氏の翻訳、『わたしは邪魔された―ニコラス・レイ映画講義録』でのニコラス・レイの話を参照しつつ、演出について話は展開されました。
続いて、シーン8の画面についての考察となりました。シーン8は、お玉が茂兵衛に持っていくお粥を調達するシーンです。
ここで監督の人物配置における演出に対する美学を垣間見ることが出来ました。というのも、監督は、画面左奥の階段から雑巾がけをし降りてくる人物を見るたびに泣けてくると、嬉々として指摘するのです。(画像をご覧下さい)
「場所」の使い方、例えば言葉が悪くなりますが、これを「画面の埋め方」と断じますと、奥行きを出すために斜めに撮られたこの空間、一歩間違えばあっけらかんとした画面だったでしょう。
しかし、掃除やら料理やらで賑わうという場面の設定、これを演出とするのなら、これぞまさしく、身体と構図が見事に調和した、演出の結晶なのです。
高さを否が応にも意識せざるを得ない階段の存在と、目に見える(ない)音の存在、そしてこれら、役者なる身体、動きが存在することで、注意が喚起され、こういって宜しければ空間を高めているのでした。
そこには、私達の目と耳を確かに刺激する、素晴らしい演出が存在していたのです。
手を入れる、これは単純に言えば「画面を埋める」という話でしょうが、
溝口は手を抜かない、と監督が
「画面に見えたもの、聞こえたもの、全て書き出すこと」
と指示するのは、こうしたコトにしっかり気付かせるためだったのです。
この雑巾がけをしながら階段を降りてくる人物を確認するたび、監督は何度もうなり、溝口健二の演出を讃えるのでした。
第一部の最後はシーン26、27です。
シーン26は、おさんが(以春の)服を畳んでるトコロです。
こちらも開かれた障子(?)の奥に、この後に続く茂兵衛と以春が映りこむ、そして、おさんが服を畳んでいるという、絶え間なくしっとりとしたこの動きこそが、観客の集中を・・・、と満載でした。
騒ぎに気付いた、おさんによって開かれる障子、これは後述して明らかにしますが、『近松物語』において(も)、溝口健二の演出、場所使いは、空間を放つ(!!)といった感触があります。
例えばシーン12、ここでは以春が帰ってきてから移動する際、何度「おかえりやす」と言われるか実際に数えて検証したのですが、ここに、ふすまがあらかじめ開いている箇所が、そこに三人の女性が立て続けに画面に登場することで、奥行きと時間をまさに生んでいる!といった感触を覚えるのです。
勿論、廊下の映画と監督が喝破した通り、まるで奥に人物を通すようにと手前から奥へとのびる廊下(とする構図)など、散見することが出来ます。
どのように人を動かすか?そこに注目するだけでも、ただ単に画面を埋めるだけに動かされる身体に私達はなんの興味をそそられず、例えばカメラワークを引き連れ出す身体や、溝口健二のように空間を放つような身体にこそ、意識は向いてしまうことが明らかになりました。
動きについては身体性をテーマに話は展開されました。
続いてシーン27です。
シーン27は問答無用の盛り上がり、茂兵衛とおさん、二人の運命の歯車が動き出す場面です。
ここでは、依田義賢による『近松物語』の脚本と、実際に撮影された映像とが比較分析されました。実際、このシーン27は「奥の間」と脚本には書いてあるのですが、実際ロケーションとなっているのは「中庭」であります。
一体何故?
それは
「中庭」(の方)がどうしたって盛り上がるから!!
この理由は考えれば考えるほど納得出来ます。
監督は続けます。
「中庭」は映画的な空間である。
こうなるともう、問答無用です。
さらにこのシーン27、溝口健二はここぞとばかりに、とっておきを用意していたのです。
シーン16での茂兵衛とお玉の会話シーン、ここでは二人を撮らえた構図によって一部始終が行われ、決してお互いの顔を虫眼鏡で見るように大写しをすることはありません。
強いて言うならば、監督の指摘の通り、茂兵衛は仕事をしながら、お玉は何度も体位を変えながらと、二人は常に動いておりますし、ほんの何度か交わされる視線も、構図、身体による演出(勿論実際に音も関係しますが・・・)から、頼りない結びつき(?)として理解をしました。ここにはやはり茂兵衛とお玉のロマンスを期待することは出来ませんでした。
さて前おきが長くなりました。
おさんの頼みで主人である以春の印判を内証で用い、金を借りようとした茂兵衛。
それを助右衛門に見つかり、自ら以春に白状する茂兵衛。
以春の怒り、されど、おさんのことは口に出さない茂兵衛。
更に立場が悪くなる茂兵衛。
そこをなんとお玉がこの罪の黒幕(?)を買って出るのです。
ちなみにこの構図自体、溝口健二には珍しいと監督がおっしゃっておりました。脇道に逸れずに続けます。
さあ、茂兵衛です。この画面で分かるのは二つでした。後ずさりをしてはいるのですが、明らかに動き、身体が抑制されております。そしてもう一つ、顔です。
しかしです。このカット(画面)、間違いなく顔に注目がいきますが、決してその表情によって動揺(心理)を伺え!!というのでは、とりあえずないと。この画面の最中、私達は勿論、茂兵衛と同様、お玉の行為に動揺をしますから、首尾よく画面に現れた動くものに反応したと言ってもいい気がします。
これが茂兵衛ではなく、例えばどこかに立てかけてある箒(ほうき)が倒れる画面だったならどうでしょう?それでも程度の差こそあれ、そこに動揺やら感情の高ぶり(?)を感じることが出来る筈です。ではこの構図、この身体、このタイミング、この茂兵衛によって理解せざるを得ないものは何なのでしょう?いや、理解したものと言い換えた方が相応しいかも知れません。
この次のカットは、おさんでした。
勿論、このカット、配置関係から考えて、おさんが茂兵衛を見ているのは明らかです。しかし、このおさん、このタイミング、この身体、この構図の繋がりで私達が確信したのは、運命の歯車、茂兵衛とおさんのロマンスではなかったでしょうか?
これが溝口健二がとっておいたもの、それがこの「切り返し」という手法です。
おさんは配置関係から考えて(も)、すぐにお玉を見るように向きなおしますが、いやいや、これも問答無用でしょう。私達が向きなおすのは、やはり茂兵衛とおさんのロマンスのスタートなのですから。私達はここに、おさんの動揺など、実は見てはいるが見ていないと言っても良いでしょう。
「切り返し」という手法は悪く言えば簡単な操作だそうです。しかし、それがかように市民権を持ちえて以来、それ以上に二つの身体を結びつける手法はないのでは・・・、っと、これは第二部の藤井仁子氏による監督への質疑に譲ることにしましょう。
とにかく、溝口健二がこの盛り上がる場面、盛り上げる場面に、とっておきとばかりに「切り返し」を使用したこと、監督は「溝口はこれがやりたかったのだ」と、「切り返し」を作動させる、このシーンの驚くべき謎へと私達を誘いました。
溝口健二は撮影する場所(スタジオ)にずっとこもるという逸話があります。
そこで溝口健二が何を考えていたか?それはこの場面、シーン27においては配置だったと監督は断言します。
それこそ人物配置の妙と時計回りのうずまきといえるものでした。
お玉が登場することによって、以春→(お玉)→茂兵衛→おさん→・・・と、感情の流れが時計回りのうずまきに構成され、
しかも
カメラポジションを検討すると、まさに計算されたように時計回りにうずまきを描いて撮影がなされているのです!!
勿論
その頂点にあったのがあの「切り返し」だったというのは言うに及びません。
監督は、
時計回りにうずまきを描いて撮ることにどんな作用があるか?それはわからない
と語るのでした。
さて、最後、第一部、溝口健二監督作品『近松物語』徹底分析、その映画演出の核心を終えるにあたって、監督自身、映画の教科書だというこの『近松物語』に疑問を投げかけました。
シーン25なのですが、茂兵衛が罪を働く場面です。
ここでもふすまは開け放たれており、そこに人物が通ることはないのですが、
実際、これだけ人に見られる状態で罪を働くことが出来るかね?
と監督は指摘するのでした。
ーーーーーここから第二部ですーーーーー
第二部は藤井仁子氏(立教大学非常勤講師、映画研究者/ウェブサイト『テアトル・オブリーク』主宰[http://u-go.to/oblique])による柳町監督への質疑です。
藤井仁子さんと柳町監督
掟破りですが・・・
との断りを入れて、仁子さんから監督ではなく私達に向けて質問がありました。
・『カミュなんて知らない』のファーストシーンのラストを覚えていますか??
・ファーストシーンは何によって終わりますか??
・覚えている方はいらっしゃいますか??
と。
『カミュなんて知らない』の冒頭はご存知、6分40秒のワンカット(!!)があります。ご覧になった方覚えていますでしょうか?
堂々と書きましょう。
松川(柏原収史さん)、本杉(阿部進之介さん)、上村(鈴木淳評さん)、大山(田口トモロヲさん)が並んで歩き、ベンチに座っている中條教授(本田博太郎さん)を追い越していくのですが、その中條教授は遠い目をして何かを見ていまして、一応視線の先にはダンスに興じる学生達がおり、クレーンによって俯瞰気味で撮られた画面の後ろを本杉が横切り、音楽とともにダンスグループは決めポーズを繰り出すと、曲調が変わり、交代で続いてのダンスグループが踊り出すころにはキャメラはいつしか真正面で踊りを撮らえております。
その瞬間パッと画面が切り替わり、煙草を口に持っていく中條教授が映し出されます。
また画面が切り替わり、この画面の流れより中條教授の主観ショットと思われるこの画面は、学生が横切るも意に介さず、先ほどのダンスグループのレイ(黒木メイサさん)を正面に撮らえます。
ほどなく画面は切り替わり、すーっと中條教授に寄っていくカメラ。
画面切り替わり、ダンスグループを広く撮らえた画面はレイの大写しへと移行し、『カミュなんて知らない』のファーストシーンが締めくくられるのです。
実はワンシークエンスショットではなかったのです!!
そして、冒頭の長回しの6分40秒を終える手段(?)に選ばれたのは、第一部でも触れられた「切り返し」、中條教授とダンスグループの「切り返し」だったのでした。
『カミュなんて知らない』の冒頭を確認した後、仁子さんが資料として用意した作品の上映がありました。それは『シテール島への船出』(1983 ギリシャ/イタリア)の抜粋でありました。
こちらの冒頭から約20分後に始まる、亡命したロシアから32年ぶりに帰国するスピロスと、再会を果たすスピロスの妻・カテリーナの再会の場面、長い長いワンカットの果て、監督アンゲロプロス氏が用意したのもなんと「切り返し」だったのでありました。
1:タクシーから降り立ったスピロスが家までの道をゆっくりと歩く
2:家の前で立ち止まるスピロス
3:迎える妻・カテリーナ
※1から2まで<横移動の長廻し>で、3で<切り返し>です。
仁子さんは続けます。
「切り返し」という手法が発明されて以来、この手法以上に二つの画面(身体)を強く結ぶ手法はないのではないか?
思うに「切り返し」が機能するにも、視線(もしくは物語)を追うという、いわば私達が人間でなく、(ルールに従っている)観客である必要があるといえます。
画面には決して映ってはいない視線が、前後のカットから理解する配置関係や物語上の整合性、さらには観客ゆえの思い込みによって、結ばれるのですから。
仁子さんが、
「切り返し」以上の手法があるかどうか?
藤井仁子さん
と私達に問いかける時、第一部で仔細に分析された『近松物語』のシーン27、『シテール島の脱出』にてアンゲロプロス監督が用意した再会シーン、そして『カミュなんて知らない』の冒頭の長回しの終わり、
それぞれの場面において「切り返し」という手法が選択された事実に、この「切り返し」にしか訴えざるをえなかった物語の内部における複雑な思いと、それはまたそれぞれの監督の演出に対するケイケン(経験?敬虔?)、考えを同時に孕んでいたのだと、私達は胸を熱くするのでした!!
柳町監督
『カミュなんて知らない』をもう一度ご覧頂ければ再確認出来ますが、中條教授の熱視線(!?)で終わる長回しを思い出して下さい。
第一部の『近松物語』のシーン27。
登場人物それぞれの思いの方向が「中庭」という場所で、配置によって、カメラポジションによって、美しい流れる時計回りのうずまきに場面が展開されている驚き、感動と同じく、
『カミュなんて知らない』の冒頭の、久田(前田愛さん)から始まり、松川、ユカリ(吉川ひなのさん)、上村と吉崎(伊崎充則さん)、中條教授、本杉、大山と、ほとんどの登場人物がかわるがわる流れるように紹介されていく裏に、
『近松物語』のシーン27と同じ香り、
ただ、『カミュなんて知らない』では登場人物の思い(?)がワンカットのとめどない流れによって同様、流され、スカされていってしまう果てにあらわれた中條教授の執拗な視線が呼び込んだ「切り返し」の瞬間、(時にレイはダンスに興じてその視線に気づかなくとも)私達観客は、中條教授の密やかな思いを見つめ、そして受け止め、この二人のロマンスを期待させられてしまうのでした。
それが食事のシーンの「切り返し」によって、今度は圧倒的な「しっぺ返し」を知ることになるとしても・・・。
監督:1964年、19歳の時、「日仏交換映画祭」ではじめて『近松物語』を観たんです。物語が偶然で成り立っていく、その偶然性(おさん、お玉、茂兵衛、それぞれの行き違い)、悲劇の連鎖、つまり人の運命が緩やかに、しかし、劇的な曲線を描く、そのことに19歳の僕は震えましたね。
仁子氏:監督が惹きつけられるものとは言葉で説明できないトコロで、そのため、理屈では割り切れない状況に人間を追い込んでいくのではないでしょうか?
監督:そういうものに自分が惹かれる、ただ、自分の中の何が(それに)反応するのかわからないんです。
仁子氏:俳優は理屈で説明出来ない行動を要請されることになるのだろうが、俳優にはどのように説明するんでしょうか?
監督:キャスティングがいつも難航するんです。出演を断る俳優は皆いちように「わからない」と言う。そんな時、30分、1時間で説明できるとは限らないから諦めるんです。
仁子氏:『カミュなんて知らない』では画面外の音(オフの音)に際立った特徴がありますね。
監督:溝口健二の影響が大きいでしょう。それと、20代の頃、ブレッソンの「スリ」「抵抗」を観て音で勝負できるという確かな実感を得た。『19歳の地図』において、主人公が地図にペンで書き込むところはブレッソン
の影響が確かにありますね。
仁子氏:技術的に困難を伴うドキュメンタリーから出発した監督はどのように音についての意識を深めていったのでしょうか?
監督:同時録音は出来ましたが、機材が高いんです。数ヶ月かけて撮影したから、要所要所で同時録音を採用したんです。オーソン・ウェルズは「俳優とカメラの前にあるすべてのモノを撮るのが監督の仕事」と言う。カメラの前にあるものをいかに切り取るか?最初撮っても撮ってもひどいんです。つまらないんですよ。一通り撮影したものを見直しても(ラッシュ試写)ひどいから困る。そして中断して、撮影を再開してなんとか撮れるようになったんです。「カメラの前のものをこういうふうにすれば撮れるなあ」というところまでいくのに時間を要しました。言葉では説明しづらいんですが・・・。
仁子氏:『カミュなんて知らない』において登場人物が話すことについて、「告白」が重要な位置を占めてますね。言葉にするとズレていく、言葉が行動を裏切っていくと言いますか・・・。
監督:人物の心理と台詞は直結しないでしょう。本当の記憶ということ自体、半分以上疑っています。二人三人と間に入るだけでも変わってしまいますから?普段でもけっこう嘘を(事実かどうかを置いて)話してしまっている気がします・・・。フロイトが「心の本質が意識の中になく、無意識下にある。心の本質は見えない」と言っていますが、映画ダイアローグはそれを承知で書いています。
仁子氏:現実と虚構は柳町監督作品において実に根深いテーマです。ドキュメンタリーから出発して、劇映画を始め、そして前作が95年の『旅するパオジャンフー』、これはドキュメンタリーでしたが・・・。
監督:テレビ番組として話があったのが前提です。しかし、途中からは劇映画的に撮っています。パオジャンフーの彼らのどこを撮るか?ずっと粘るわけにはいきません。どの部分を撮るのか想像力を働かせました。普通に撮ったら、だらだら薬を売って、だらだらした日常なだけですから。・・・海に連れて行けばなにか出るんじゃないか?わざとブランコに少年少女を乗せてインタビューしたり・・・。
仁子氏:劇映画ならある程度準備といったものができましょうが、ドキュメンタリーは反射神経的なものが要求されるのではないですか?
監督:勘と想像力ということでしょう。
ーーーーーここから第三部ですーーーーーー
第三部は『カミュなんて知らない』のラストシーン解剖です。
『カミュなんて知らない』のラストシーンは映画『下妻物語』で深田恭子さん扮する竜ヶ崎桃子の家として使用された水街道のロケセットが舞台となっております。
ちなみに『下妻物語』には本田博太郎さんが出演しております。
監督は撮影日程から話を始めました。そこでは撮影に入ってからも、終盤に予定されていたラストシーンのこのロケ地はまだ許可がおりていなかったという裏話も飛び出しました。ちなみに話によるとロケセットの現状復帰が出来るかどうか心配というのがネックだったらしいです。
撮影日程という撮影において避けては通れない問題。そのしがらみ(?)の中でいかなる奮闘が行われたのか、私たちは追体験したのでした。
例えば、予告編でも登場する、中泉さん扮する池田が自転車を漕ぐシーン。あそこはたまたまロケバスで通った時に発見したそうです。
撮影日程から水海道ロケセット撮影後、自転車を漕ぐシーンの撮影が予定されていたらしく、しかし、実際そのような時間(準備、ロケーションハンティング)は撮影日程を経過していくにつれ、いつのまにか削られていった。
パンフレットにも記述があるとおり、台風やら大雨やら日照やら、予備日すら丸呑みにしてしまい、ロケーションハンティングに費やす時間、予定を何とか捻出することも出来ない状況だったそうです。
ですが、運を呼び込んだ、などと軽率な発言を控えるしかない、それはなんというか、人間の努力、経験からなる蓄積された実力とは、こういう極限の状態にこそ爆発の機会を伺っているもので、ロケーションハンティングから着想をする監督ならではの勘と瞬発力とでも形容すれば良いのでしょうか?「場所」を何気なく通ることすら出来ないアンテナ(?)によって、すぐロケバスは止められ、まさにゾクゾクするという確信によって、ここだ!と即決されたそうです。
カメラの構図の話、右に河川敷と川を備えた長い道は、手前で曲線を描き、まるで住宅街に呑み込まれていくようにその先を求めて、スッと伸びているのでした。
監督はそこで、
いやあ、白いガードレールがなければ最高なんだけど・・・
と。 ・・・mapは徒然草の話を思い出してみました。柵があってがっかりしたというこんな話です。
また、自転車を漕ぐ中泉さん扮する池田を撮影隊が軽トラックの荷台から撮影しているカットがありますが、時間にして15秒前後のこのカット、道路脇になにやら煙が立ち上っております。
この煙も演出なのです。前日から準備されたものでした。
この煙を出すため燃やすワラは、学生スタッフたちが近くの農家からわけてもらったり、実際に朝から夕方まで刈り取って集めたものだそうです。しかも、このカットは劇中撮影隊の軽トラックのスピードと実際(?)の撮影車のスピードが合わず、何度もテイクが重ねられたそうで、その度にワラは燃やされますし、その度にカメラに写らないように隠れるわけですから、それは大変な撮影だったそうです。
さてここから本格的にラストシーン解剖に入っていくのですが・・・
演出について語る。と題されたこの6時間ワークショップですし、流石にこれ以上、ラストシーンの演出へと切り込んだ第三部の報告は、現在上映中である状態から難しいというのが実際であります。
申し訳ありません。
例えば、この後ラストシーンの中で中泉さん扮する池田(実はこの表記も難しいのです・・・。ご覧になった方はこの難しさを察してくれましょう・・・)が、ネクタイを締めるという動作、演出の話など、ど〜んと紹介したいのですが・・・。
※未見の方も見逃せないトコロです。
February 04, 2006
spumaクロージングパーティー
ありがとうございます、map-kozouWITH俺。です。
←ご協力ありがとうございます!!
今日は6時間ワークショップのレポートを一旦お休みしまして、1/31に行われたSpumaクロージングパーティーの報告をさせて頂きます。
『カミュなんて知らない』公開記念 映画業界ヒソヒソ話
〜映画が製作されてから公開されるまでの裏話トークショー〜
会場は終始アットホームな雰囲気で、map達『カミュなんて知らない』学生宣伝部も食事とトークを思う存分楽しみました。
まず司会の武藤起一氏が昨日までインフルエンザで寝込んでいたと、話が始まりました。
体力が持つか心配だから早速呼び込みましょうと、『カミュなんて知らない』で池田哲哉役を演じた中泉英雄さん、撮影の藤澤順一カメラマン、そして柳町監督が登壇し、映画撮影現場での製作過程をテーマに第1部が始まりました。
池田役に中泉英雄さんが決定した経緯や、舞台に立教大学が選ばれた理由。さらに、本田博太郎さん演じる中條教授と柳町監督の関係(無関係とのこと)。藤澤カメラマンによる撮影時の裏話等々、まさにヒソヒソ話の目白押しでした。
池田役の中泉英雄さんは、ラストシーン撮影後の夜に興奮のあまり眠れず、柳町監督や藤澤カメラマンの宿泊するホテルにふらっと行ってみたこと。監督達の前に現れた池田の抜け切れていなかった中泉さんのその姿が異様な雰囲気だったこと。役者魂炸裂のヒソヒソ話も飛び出しました。撮影現場に参加していなかったmapWITH俺。さらに、映画業界を目指す学生達にとっても最高の時間でした!!
30分の休憩後に第二部開始。今回宣伝部は、スタッフではなくお客さんとしての参戦。なぜかソワソワしてしまいました。
第二部は柳町監督、藤澤カメラマン、中泉さんに加え配給会社のみなさんも御登壇。
『カミュなんて知らない』の配給をするに至った経緯や、映画を配給する際の作戦(戦略?)。ターゲット層についてや、配給宣伝する作品によっての方法の違いといった、第一部に引き続き目と耳の離せないひと時でした。カミュファン、映画業界を目指す学生、ご来場の皆さんも熱心に聞き入ってらっしゃいました。
トーク終了後、宣伝部がソワソワと会話している席に中泉さんがいらっしゃいました。男女問わず目が。かっこよくてやさしい。もう最強です。パンフ持ってくればよかったな。。と俺。は後悔。ちゃっかり持って来ていたmapはウハウハで、藤澤カメラマンと中泉さんにサインをもらっていました。
こうしてspumaクロージングパーティー、
『カミュなんて知らない』公開記念 映画業界ヒソヒソ話〜 映画が製作されてから公開されるまでの裏話トークショー〜 は大盛況の内に幕を閉じました。
ご来場のお客様方、ありがとうございました!!
January 31, 2006
☆『カミュなんて知らない』写真展@Spuma☆
January 30, 2006
6時間レポ
ありがとうございます。map-kozouです。
ワンクリックお願いします!!
さて6時間のレポートをさせて頂きます。
第9位は、
廊下の映画ではないか!
と早くも啖呵を切るという、監督の煽りで6時間がスタートしました。
監督は飛行機を引き合いに、この乗り合わせた観客を映画演出の旅へと連れ出した(?)のです。・・・几帳面な監督が本当に(!?)機長となりました。
これは勿論、第一部「溝口健二監督『近松物語』(1954/大映)を徹底分析、その映画演出の核心に迫る。」より、『近松物語』のロケーション(撮影場所)が廊下という、映画的な場所において撮影されているという分析から出た言葉でした。
・・・さて私は前回、当日を明日に控えた興奮の中、
つい、
>本ワークショップのレヴューは
>この学生宣伝ブログにて
>徹底サポート、スッポンリポート
>させて頂きますので、当日ご都合出来なか
>った方々も引き続きどうぞご期待下さい。
と、啖呵を切ってしまいましたが、このようなカウントダウン形式にてレポートをさせて頂きたいと思います。
この思惑は一つです。
このレポートを叩き台として機能させることで、開かれたレポートにするため。
つまり、観客総宣伝部化作戦です。
出席された方のとっておきの感想(コメント)は、更なるレポートの充実化に貢献することになり、それはもはや宣伝と転化していくシステムです。
さてさて続けましょう。
第8位は
常に動いている!!
これは第一部と第三部より。溝口監督は何かしら役者を動かす演出をしているという指摘(第一部の『近松物語』では、細工場の茂兵衛とお玉の会話シーン)から、『カミュなんて知らない』の老婆の台所での所作へと、話は縦断しました。
小説にはすっぽり演出が抜けている・・・。map-kozou
なんてmap-kozouは書いてしまいましたが、例えばエキストラを動かすにも、配置、導線(移動経路)だけではただの段取りです。演出とは、動きに緩急をつけてみたり、何か持たせてみたり、と。これを注目させるコト、と言ってしまうと恥ずかしいので、豪華にするコトと言います。画面を彩るという言葉から引っ張ってきました。なあんてmapは考えを巡らしてました。
第7位は
その「おかえりやす」、14回!
以春が帰ってきて奥の間に着くまで、「おかえりやす」「おかえりなさいませ」の連呼、なんと14回。明らかな演出であります。交響楽のようです。豪華。
エキストラ(人物)の動き方も見事で、その流れるような演出は、時に奥行きと時間とを捏造しています。
ここで柳町監督は観客席に「おかえりやす」の回数を数えるように指示。
次回へ続く・・・。